函谷関って復元なの?秦時代より小さくて低い?絵や画像で紹介

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こんばんは。

先日広島の子の結婚式に出席しました。

僕の働いている会社を辞めた子の結婚式だったのですが、とてもいい結婚式でした。

幸せそうな顔を見るとこちらも嬉しくなりますね。

今日はキングダムに出てくる函谷関(かんこくかん)という関所の記事です。

キングダムでの函谷関は合従軍編で最期の砦として登場しますよね。

では中国では実際に函谷関という関所があるのでしょうか?

その部分が気になったので調べてみました。

函谷関を絵や写真で紹介

キングダムを読んでいる方はご存知だと思いますが、そもそも函谷関ってなに?って方の為に少し説明します。

函谷関とは

中国河南省にあった関所で函谷関には旧関と新関とがあり、旧関は昔壊された歴史があります。

趙や魏から秦に入るときには必ず通らないといけない場所であり、歴史上多くの戦いが行われた場所でもあります。

戦国時代東方からの侵入を防ぐため、現在の三門峡(さんもんきょう)・霊宝市(れいほうし)に作られる。

当時は3層の楼閣(塔)が2棟あったという。

楚漢戦争(紀元前206年~紀元前202年に行われた戦い。「項羽と劉邦との戦い」とも呼ばれる)で項羽軍に破壊されるも、2000年以上経過した1992年に復元される。

新函谷関は前漢の時代に旧関の東約100㎞離れたところに新しく作られた。

前漢時代には王都長安を守る東の防壁であり、後漢時代には王都洛陽(らくよう)を守る西の防壁としてその役割を果たした。

函谷関はいつの時代も重要な役割を果たしていますね。

函谷関が無ければ秦国は中華統一を果たせていなかったかもしれません。

キングダムでも合従軍編で秦最後の砦として、壮絶な戦いが繰り広げられているほど。

合従軍編僕大好きなんです。

国王である政が自らの足で函谷関まで出向き、国民を奮い立たせるんですよね。

戦力になる兵はほとんど負傷し、負けムードが漂っている中政の声によって兵士ではない民までも合従軍と戦います。

そして最後に楊端和 (ようたんわ)が救世主として登場し、一気に形勢逆転!

楊端和の記事もどうぞ!

楊端和の歴史や性別は?内田が実写コスプレ?画像も

読んでいてずっとハラハラしていました。

一番印象に残っている戦いです。

キングダム好きの方はこの気持ち分かってくれると思います。

函谷関の絵や写真

これはキングダムでキングダムで描かれている函谷関です。

人が点に見えるほど高くそびえたった函谷関が描かれています。

この写真は取り壊す前の新函谷関。

白黒の写真が歴史を物語っています。

当時はここにたくさんの人があふれていたのでしょう。

長い行列ができている光景が想像できます。

夕焼けをバックにした函谷関も味があっていいですね。

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函谷関って復元されているの?

先ほども書きましたが、現在の函谷関は復元後の函谷関であり当時の物は楚漢戦争で破壊されてしまいました。

函谷関は旧関と新関に分かれますが、ここでは旧関について書きます。

河南省の北西部に作られ当時の交通の要地になっていた函谷関。

霊宝県の南西2㎞のところに位置している場所に建てられています。

戦国時代に秦の孝公が東からの侵入を防ぐために建てられたと言われています。

それまでは小さい門はあったものの侵入し放題だったという事なのでしょうか?

函谷関の場所は割とわかりやすい場所にあり、渭河(いすい)と世界的に有名な黄河が合流する場所の傍に建てられています。

GoogleMAPで調べてみたところ紀元前の地図と川の位置は変わっていませんでした。

渭河という河と黄河が合流し大きく曲がっている部分がありますね。

この少し東側に函谷関が建てられています。

春秋時代ではこの場所が韓や魏との国堺だったのでしょう。

当時は東からの攻めに対してとても効果のあった函谷関ですが、楚漢戦争で取り壊されてしまいます。

では春秋時代には難攻不落の関所と言われていた函谷関ですが、たった100年後には簡単に落とせる関所になってしまったのでしょうか?

いやいや、そんなことはありません。

秦が中華を統一した為以前に比べ各地での戦争が劇的に減っていきました。

秦は中華では敵なしの状態になってしまったので、当然函谷関での守りも以前に比べて緩くなってきますよね。

函谷関が突破されたとき、守りの兵士は最低限しかいなかったんだとか・・・。

人がいなければ守れるものも守れないですよね。

もしその時、完璧に守りに入っていたら絶対に突破されていなかったと思います。

そうなっていたら歴史も変わっていたことでしょう。

当時の戦争はこんな感じだったんじゃないでしょうか。

SASUKEのそり建つ壁より何倍も大きい門に、敵がうじゃうじゃいる中無理やりよじ登って戦う・・・。

考えただけでもぞっとします。

すごい世界。

しかしそんな函谷関があったからこそ秦が東からの侵攻に負けず、中華を統一できたんじゃないかと思います。

紀元前に取り壊されてしまった函谷関ですが、2000年以上経過した1992年に修復され今も観光地として多くの方が訪れています。

なぜ2000年も過ぎて修復しようと思ったのでしょうか。

そこがすごく気になります。

函谷関は小さくて低い?

函谷関で検索をかけると「小さい」「低い」という言葉がヒットします。

キングダムではものすごく大きく描かれていたので、もしかしたかホントはすごく小さいんじゃないのとか思ったりして調べてみましたが当時もかなりの大きさだったようです。

しかし函谷関の裏側はとても険しい道が続いているようで、その部分の事ではないかと思います。

当時の函谷関のイメージ画像を見つけました。

裏側分かりますか?

平地じゃないんですよね。

山を真っ二つにしたような場所に函谷関があり、とても険しい絶壁、木の茂みが続いていたんだとか。

その道は当時「地獄への道」なんて呼ばれていたようです。

もし函谷関を攻め落とせても、この険しい絶壁に伏兵を置くことはとても簡単で上から攻撃されてしまえば逃げ場がありません。

函谷関が難攻不落と言われていたのはこの絶壁も含まれていたのかもしれません。

初めの方に書きましたが、今説明しているのは旧関と言われる函谷関で紀元前144年の前漢の時代には旧関の東約100㎞の場所に新函谷関が建てられています。

この新関も漢の国都を守るために大活躍しています。

毛沢東時代の1958年に瓦礫採取の為取り壊されてしまいましたが、それまでは国都を守る重要な関所としてその役割を果たしていました。

なぜ前の函谷関の場所に建てなかったのか?

理由ははっきりとはしていませんが、秦から漢に時代が変わり王都の位置も変わった為というのもあると思いますが、あの険しい道が貿易や物資を運ぶ場所に適していなかった為ではないかと思います。

守りとしては最高の場所ですが、物資を運ぶ時などは大変だったことでしょう。

しかし新も旧も当時の建物が残っていないというのは残念な話ですね。

当時の函谷関の迫力を感じてみたかった。

さいごに

数千年前の建物という事もありあまり詳しい情報を見つけることができませんでした。

しかし「難攻不落の関所」と言われていたのは本当の話だという事、そしてキングダムでは描かれていませんが函谷関の裏側にはとても険しい山がそびえ立っていたことも知ることができました。

キングダムでの函谷関の描写は決して誇張して描いているわけではありません。

数千年前に建てられた建物が2000年以上たった今でも知られているって、すごいことだと思いません?

ぜひ中国へ旅行に行ったときは函谷関を一目見てほしいです。

僕も写真ばっかりで本物を見てみたい!

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